「信なくば建たず」

12月18日の読売新聞の「一筆経上」のコラムで編集委員の松田陽三氏が「信なくば建たず」という文章を書かれている。これは論語の「無信不立(信なくば立たず)」をもじったもので、「信なくば立たず(信なくんば立たず)」とは、子貢から「政治とは何か」と尋ねられた孔子が、食事を与え、軍備を整え、民衆の信頼を得ると答えた3つのうちでもっとも大切なものが「信」であると答えた故事によっている。

食事や軍備は形として目に見えることができる。しかし、信は育てることも確かめることも難しい。同じ読売新聞の少し前の記事で、大工か塗装業を営んでいた父親が屋根裏の見えないところにペンキを塗りながら、「こうした部分から錆びてしまうから大切だ」と話してくれた思い出を文章にしていた人がいた。一軒家のことであり、また昔の話であるから、建物の強度を計算したりそれに基づく審査もなかったことだろう。見えない部分にペンキを塗るかどうかは一重に作業をしている「人間」に依存していたことになる。そう遠くない昔、この国ではそのような思いやりや配慮に満ちていたのではないだろうか(少なくとも今よりは)。

巨大な建造物を作るためには方法論とシステム、また計算機の存在は今や必要不可欠だ。構成や要素が増えると一人の人間がその全てを把握、管理することはできない。だから指標や管理手法、管理基準が必要になる。だが指標や基準は品質や内容を図る一助にはなったとしてもその全てを表すものにはならない。数値には現れない品質もある。

残念ながら、信がなくても建築物は建ってしまう。サービスも提供できる。「信」は目に見えないから、信が減ってもすぐにはわからない。失われたものの価値が理解されるためには、あとどれだけの時間が必要なのだろうか。