「ブーブの実らぬ恋」

読売新聞の夕刊の「交"遊"緑」というコラムに「ヴーヴの実らぬ恋」と題した文章が掲載されていた。書いているのは脚本家の筒井ともみさんだ。

アメリカンショートヘアのブーブがうちへやってきたのは、ガルシア君のお嫁さんになるためだった」という書き出しで始まるその文章には、今はもういないかつての飼い猫、ガルシアのことが書いてあって、筒井さんがブーブを抱いて階段に座るかなり大きな写真が載されている。

筒井さんはどこにも「悲しい」という言葉を使っていないのだけれど、その悲しさは深く自分に伝わってきた。何度か時間をおいてその記事を読み直して、僕はその記事をスクラップすることにした。写真に写るブーブはカメラのほうを見つめているのだけれど、ブーブを抱いた筒井さんはどこか遠いところを見ている。とても悲しく切ない写真だ。

ときどきこうして新聞の記事をスクラップする。以前はきちんとスクラップブックに貼り付けて整理していた。あるときそれを見たいという人が現れ、何ヶ月かしてその人からスクラップブックが戻ってくるまでの間、貼り付けられない記事がたまった。スクラップブックは戻ってきたのだけれど、なんとなくまた前のように整理する気がしなくなった。

切り取る記事はいろいろな意味で自分の心を動かした記事だ。ときどき昔の記事を読み返してみることがあるけれど、どんなに古い記事でも自分が何故それを選んだかはちゃんとわかる。インターネットで何でも検索できるようになったけれども、記事をスクラップするという作業には特別の意味がある。それは人に頼んでは駄目で、自分で選んだものを自分で切り取らないといけない。僕は経験を通じてそのことを知ったのだけれど、あるときどこかのCEOが「スクラップは自分でやらないといけない」と書いていたのを見て、自分だけではないんだなとなんだかうれしくなった。

僕が記事をスクラップしても、筒井さんの悲しさを埋めることはできないし、ブーブをなぐさめることもできない。それは「何にもならない」作業だと思う。だけど、その「何にもならない作業」は、見えない何かでどこかにつながっている。証明はできないけれども。