「情報の見える化」に思う

一週間の夏休み(実際には休んでいたわけではないのだが)の間に、会社のメールボックスにはすごい数のメールがたまっていた。可能な限り携帯電話でチェックし、不要なものは削除していたが、焼け石に水で、途中から「すきなだけたまっていれば良い」とあきらめた。

周知の中に「見える化をしました!」というお知らせがあった。最近、世の中では「情報の見える化」がはやっているらしい。何を「見えるようにした」のだろうと思って読んでみると、「サーバの下にこれこれのExcelファイルを作成しました」で、とてもがっかりだ。そのファイルが置かれているフォルダを登録して、定期的に内容をチェックしろというのだろうか。そもそも、「見える化」したという情報は本来その部門で公開すべき内容であり、それを公開することを見える化と呼ぶのはどうなんだろう。

同じような話で、Wordの文書が添付された周知メールもよく見かける。多くの場合、添付されているWordファイルを開いてみると本文は10行もなかったりする。ひどいときには、Wordファイルの中に実質的にURLくらいしか情報が含まれていないこともあって、思わず「iノードか」と独り言をしてしまう。最初から情報をメールの本文に書いてくれれば良いのに(もしかすると、重要な情報はメール本文ではなく、Wordの添付ファイルに書かなければいけないというルールでもあるのかもしれない)。

見える化」は語呂が良いのかいろいろなところで使われているが、どうも「見せる側中心」のような気がして、あまり好きではない。伝えるべき情報であれば、読み手にとっていかに読みやすいかこそが重視されるべきであって、新たなキャッチフレーズを作る暇があったら、心を砕いて「いかに読みやすくするか」を考えれば良いのに。