電子メールに関するアナログな気持ち
デザインの仕事をしている知り合いは、Mac OS Xは「本当のMacではない」と言い放つほどのMacフリークだが、最近SONYのVAIOも持ち歩いているようだ。ある日メールの環境について話をしていたら、「私は大好きな人からのメールは、どうしてもMacのこのフォント*1でなければ読めない」と言う。
最初はこの言葉を聞いて、「やっぱりデザイナーは違うなぁ」と感心していたのだけれど、実は自分も同じような部分があることに気がついた。僕は毎日持ち歩いているノートPCと会社のデスクトップを含めて、自分でどれだけあるか思い出せないほどメールを読む環境を持っている。メールソフトは、nigthly buildを追いかけているThunderbird (WinXP, Linux, Debian), Meadow+Mew、鶴亀メール、Outlook 2002, Outlook 2003(買うんじゃなかった), Ximian (Debian)・・・と本当に全部を思い出せないのだけれど、気持ちを込めて書くメールや大切なメールは必ずと言っても良いほどMeadow+Mewで書くことが多い。メールのチェックはThunderbirdやOutlookにさせて、返事を書くときはおもむろにMewで"w"をタイプする。
別にThunderbirdやOutlookでメールを書くのが嫌なわけではない。送るメールも基本的には変わりない。だけど、Mewでないと書けない。HがMacでなければメールを読めないという気持ちと僕がMewでないとメールが書けないという気持ちは同じではないかもしれないけれども、どこか割り切れない感覚という意味では共通していて、なんだか楽しい気がしたことを思い出した。
*1:よくわからないけれど、どうやらOsakaというフォントらしい