寅さんの映画

NHKのBSで寅さんの全作品をオンエアしているのは知っていたが、今週はそのうち特に視聴者から要望があった作品が放送されていたらしい。見る時間がとれるかは疑問だったけれど、とにかく2本ほどビデオに録画してみた。

渥美清さんが生きていて、毎年新作が公開されていた当時、僕は寅さんのシリーズをくだらないと思っていた。予告編やCMを見る度に一体いつまでやるのだろうと思っていた。永遠に新作が撮影され続けるわけはないというのは至極当たり前のことなのだけれど、当時の自分はその当たり前のことが理解できていなかった。それを理解できたのはやはり渥美さんが亡くなられてからだ。

2006年の今になって見る寅さんの映画は大変不思議なものになっている。そこには昭和という時代とその時代を生きていた人々、そして時代の雰囲気とでもいうものが記録されている。電話機は勿論黒電話で一家に一台しかない。テレビのチャンネルは回転式だ。出演されていた俳優さんの中には鬼籍に入ってしまった方が多く、今も活躍されている方々もすこぶる若い。

寅さんは映画の中で笑われ、からかわれる。寅さんはそれに怒り、時に逆上する。自分が若かったときにはそれは使い古された低級な笑いの手法としてとらえていた。今見るとそこに優しさとしか形状のしようがない感情を感じるし、笑う側と笑われる側の間に存在していたであろう幸せを感じずにいられない。漱石が随筆の中で、正岡子規のことを思い出している文章がある。漱石は子規に笑われた時のことを思い出して、笑われたくても笑ってくれるものはいないということを書いているのを思い出した。感傷的な言葉が並べられていないからこそ、そのときの気持ちが伝わる。

寅さんの有名な台詞の中に「それを言っちゃあ、おしめえよ」がある。寅さんは、自分のことを知っていて、自分がどう思われているか知っていて、でもそれを知らないふりをしている。責任も気苦労もないように思われている寅さんだけれど、何も気にしないわけではない。ごまかしている。それが直接そのことをつきつけられると、いたたまれなくなる。だからこの台詞は大変悲しい台詞だ。昔は笑って聞いた台詞が今はとても悲しい。

4月2日の讀賣新聞で作家の中沢けいさんが「失われた理想を求めて」と題するエッセイを寄せている。中沢さんは希望はいつもなくなることはない、二十世紀にあって現在に失われているのは希望ではなく理想だと書いている。それが事実かどうかは人により判断は異なるだろう。だけど、2006年の今寅さんの映画を見ると、確かに現代に見られない時代の空気を感じる。おそらくそれは失われて取り戻すことができない、かけがえのないものであったことも感じられる、ちいさな痛みとともに。