学会会員誌の記事を送る

情報処理学会の会員誌のセキュアOS特集の記事のドラフトをまとめて事務局に送った。スペックとしては、8ページ、文字数は16000文字以内、その他参考文献の数は
6件まで等々細かな注釈がたくさんあって、「学会」なのでもちろん期限厳守だ。

内容は、査読結果の通知を待っている学会論文誌に投稿した記事の主題をそのまま活かしながら、「論文」から「解説(読み物)」に近づけた。論文にあった解説には不要な部分を削除し、逆に論文では書けなかった部分を2〜4000字くらい書き足している。もちろん、ただつぎはぎしただけでは、まとまった文章にならないので、全体を通して調整もしている。提出期限は、月末だから本当はもう少し推敲すると内容をより良くできるのだけれども、手元にあるとどうしてもそれが気になり、他の作業に専念できないし、多分提出してからいろいろ修正が入るだろうとも思ったので(なにしろ、「学会」の会員誌、それも初執筆だからいろいろあるのは間違いない)、少し早く提出してみた。

作業をしながら二つのことを思った。ひとつは、一度論文を書いていることが、考えの整理になっていること。ずいぶんと時間をかけたし、苦労もしたけれど、論文の形でまとめたことにより、解説を書く事がやりやすくなっている。脚本がしっかりしていると、映画が作りやすいのと同じだ(なんて書いても映画を作ったことはないわけだが)。もうひとつは、「論文」というのもの特殊性だ。論文には、書いても仕方ない、書くべきでない内容があるし、「読み物」のようだという論文査読時のコメントは、「良くない」という意味だ。何かを説明すると、どうしても詳しく紹介したくなるけれど、それは論文にはふさわしくない。だから、論文には無駄がないけれど、読みやすくはないし、読者に親切でもフレンドリーでもない。求められるものが根本的に違うのだ。自分の場合、書きやすいのはもちろん「読み物」のほうだが、「論文」を書くのは嫌いではない。書くのは難しく、苦痛だが、それを「論文」という形にまとめることは、ある種の喜びを感じさせる。

振り返ってみると、昨年の今頃は、メインライン化の騒ぎで、取材の対応やら社内の説明、報告やらで忙殺されていて、作業らしい作業はできなかったし、書き物もしばらくしていなかった。それが、4月には論文を書き、5月には、キーマンズネットに書き下ろしのセキュアOS入門を書いたし、6月には論文と読み物の中間とも言えるようなものを書いたことになる。自分で決めたことではないけれど、不思議な巡り合わせだと思う。ただ、同じようなことは、ずっと続いていて、講演をしたり、論文を書いたり、会議で発表したりするのは、均等に機会がくるのではなくて、何かシナリオに基づいて進行しているような気がしている。これから先は、どんな展開になるのだろう。